アスリート テニス

国枝慎吾はなぜ車椅子?本当は歩ける&2021現在の世界ランキングの順位は?

8月24日に開幕した「東京パラリンピック2020」で選手宣誓を務めた国枝慎吾選手。

現役選手ながらレジェンドでもある国枝選手ですが、なにがきっかけで車椅子テニスをはじめられたのでしょうか?

他にも気になる噂が色々ありますね…。

今回は、国枝慎吾選手について調べてみました!

 

 

 

・プロフィール

 

引用元 https://twitter.com/shingokunieda

 

名前 国枝 慎吾(くにえだ しんご)

生年月日 1984年2月21日

現年齢 37歳

出身地 東京都

身長/体重 173cm/ 62kg

血液型 O型

所属 ユニクロ

 

 

 

2004年、アテネパラリンピックに出場し、斎田悟司選手と組んだダブルスで金メダルを獲得。

2006年、フェスピックで金メダルを獲得。

同年10月、アジア人初の世界ランキング1位に輝く。

2007年、車椅子テニス史上初となる男子シングルスの年間グランドスラム(全豪オープン、ジャパンオープン、ブリティッシュオープン、全米ウィールチェアの4大会を制覇を達成。

国際テニス連盟(ITF)が選出する同年のITF世界チャンピオンに選出されました。

2008年、北京パラリンピックに出場し男子シングルスで金メダル、斎田選手と組んだダブルスでは銅メダルを獲得。

2009年、日本の車椅子テニス選手としては初めてプロ選手に転向。

2012年、ロンドンパラリンピックの男子シングルスで2大会連続で金メダルを獲得。

グランドスラムで最多記録である45回の優勝を誇るレジェンドです。

 

 

 

・なぜ車椅子…?

 

国枝選手はいつから車椅子なのでしょうか?

 

最初は近所の接骨院や整形外科に足を運んだが、明確な理由がつかめなかったという。だんだん腰の痛みがひどくなり、「ベッドに寝ることができず、食卓のいすに腰かけて、頭を食卓に寝かせて寝ている時期もありました」。

千葉県松戸市の病院の整形外科に行くと小児科に回され、救急車で東大病院に運ばれて手術となった。脊髄の腫瘍が原因で、すでに歩けない状態だった。

出典 AERA dot

 

9歳の時に脊髄腫瘍を発病し手術。

車椅子生活を余儀なくされました。

国枝選手は運動が大好きな少年だったそうで特にマラソンに燃えていたそうです。

手術後にいつマラソン大会に出られるかが一番の楽しみだったそうですが、これから車椅子生活になることを告げられると、「窓から飛び降りられるなら、飛び降りたい」と母親に対し漏らしたそうです。

小学4年生で、これからずっと車椅子生活と言われても現実を受け入れるのは難しかったでしょうね。大人でも立ち直るには時間が掛かると思いますし…。

退院後、実家にバスケットボールのリングを設置してもらうと、放課後に友人と一緒にバスケットボールに熱中になる日々を送っていたそうです。

本格的にバスケットに打ち込もうと車椅子バスケのチームを探しましたが、残念ながら見つからなかったそうです。

そんな中、テニスと運命的な出会いを果たすのでした。

 

もともとテニスをやっていた母から車いすテニスを勧められた。自宅から車で30分の距離にあった吉田記念テニス研修センターで車いすテニスの教室が開かれていた。テニス用の車いすに乗った直後から、驚異の才能を見せつけ、巧みな車いすさばきを見せたという。最初は気乗りしなかったテニスをやってみようと思った。

出典 olympics.com

 

小学6年生の時に車椅子テニスを始めると天性の才能を発揮。

麗澤高校に進学し、17歳の頃にパラリンピック出場選手を多数指導している丸山弘道コーチから指導を受けるようになり世界的な選手へと飛躍していくのでした。

国枝選手の実家の近くに車椅子バスケのチームがあれば、車椅子テニスの教室に通うことはなかったかもしれませんし、車椅子テニス界のレジェンドが誕生していなかったと思うと本当に運命的なものだったんだなと感じますね。

 

 

 

・本当は歩ける…?

 

国枝選手は本当は歩ける?と検索のサジェストに出てくるのですが事実なんでしょうか?

調べてみると実際に歩く姿を公開していました。

2010年11月に行われたイベント「KNOW NO LIMIT 2010」にて14歩の歩行を披露。

このイベントは、脊髄損傷者専門トレーニングジムの「J-Workout(ジェイ・ワークアウト)」が開催したものでした。

国枝選手は、2009年11月頃からJ-Workoutでトレーニングを始め、10ヵ月で車椅子から自力で立ち上がることに成功したそうです。

9歳から車椅子生活を送っており、足は変形してしまっていたそうですが、献身的なマッサージやリハビリを行い自力で歩くことが出来るまでに…。

もう歩くことはできないと宣告され、「窓から飛び降りられるなら、飛び降りたい」と母親に対し漏らした少年は強く成長し、並大抵ではない努力を続け、(14歩ですが)ついには自力で歩けるように。

国枝選手のこのエピソードは、「愛は地球を救う」を謳う某番組よりも同じ境遇の子供たちを勇気づけることになるのではないでしょうか?

 

 

 

・現在の世界ランキングの順位は…?

 

国枝選手は年間最終世界ランキング1位を8回記録しています。

しかし、これまでずっと順調なテニス人生だったかというとそうではありませんでした。

2016年、男子シングルス3連覇がかかった、リオパラリンピックのシングルスでまさかの準々決勝敗退。

慢性的な右ひじの痛みに苦しみ、ひじのクリーニング手術を受けましたが完全な回復はせず、試合には痛み止めを打ち出場しましたが、「ボールが飛んでくるのが怖かった」と思うこともあったそうです。

一時は引退を考えることもあったそうですが、国枝選手は奮起しました。

 

引用元 https://twitter.com/uqambassadors/status/1305281172222570497

 

引退も覚悟したかつての王者が取り組んだのはフォームや用具の改造だ。ひじに負担のこない握り方やグリップを探り、尻を包み込むバケットシートを初採用した。当初はフォームが安定せず、ラケットが地面に突き刺さることもあった。

出典 AERA dot.

 

2017年はフォームの改造に取り組み、2018年の全豪オープンで2年ぶりのグランドスラムのタイトルを獲得。

全仏オープンでも優勝し世界ランキング1位に返り咲きました。

2019年はツアー優勝9回、自己最多となるシーズン53勝の大記録を打ち立てましたが世界ランキング2位で終えています。

2020年は、新型コロナの影響でツアーが中断する苦しいシーズンになりましたが、全豪オープンと全米オープンで優勝し、2018年以来となる世界ランキング1位となりました。

これまで王者であった選手が自分のフォームを変えるのは相当な覚悟がいることだと思います。

しかし、その経験があったからこそ再び輝きだすことが出来たと国枝選手は語っています。

 

あのときにチャンピオンから引き摺り下ろされて、純粋なチャレンジャーに戻ることができて、バックハンドを克服して、また世界ナンバー1に返り咲いたという経緯もありました。一度チャンピオンでなくなったことによって重圧から解放されてテニスツアーをエンジョイできるようになったことは、この5年間で変化した部分だと思います。

出典 GQ JAPAN

 

王者のプレッシャーは計り知れないと思いますし、まさに怪我の功名だったのかもしれませんね。

現在、東京パラリンピックで熱戦を繰り広げている国枝選手ですが、リオパラリンピックの雪辱を果たす大会にしてほしいですね。

国枝慎吾選手、頑張って下さい!

 

 

 

最後までお読みいただきありがとうございます。

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