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風見しんごが芸能活動を休止!なぜ語学留学&結婚相手の嫁や子供は?

俳優、歌手、タレントとして活躍する風見しんごさん。

ブレイクダンスを日本に広めたこと、バラエティ番組での立ち振る舞が上手く、視聴率男として活躍してきたこと、さらには演技力も抜群と、風見しんごさんに器用なイメージを持たれている人は多いかもしれません。

そんな風見しんごさんが突如、アメリカへ留学することを発表しました。

一体、どんな理由で留学されるのでしょうか?

今回は、風見しんごさんの留学やご家族について調べてみました。

 

 

 

・プロフィール

 

名前 風見 しんご (かざみ しんご)

本名 大下 義博 (おおした よしひろ)

生年月日 1962年10月10日

出身地 広島県広島市西区己斐

身長 169cm

血液型 A型

所属 マスタープラン

 

 

18歳の時、成蹊大学に進学するために上京。

欽ちゃんの週刊欽曜日』のオーディションに野々村真さんの付き人として付いていったところ、萩本欽一氏に見いだされて芸能界へ入る。

抜群のアイドル性を持ち、『僕、笑っちゃいます』などヒット曲を連発した。

涙のテイク・ア・チャンス』ではブレイクダンスを取り入れ、日本における「ブレイクダンスの先駆者」とされる。

 

 

 

・芸能活動休止…?

 

1982年10月8日にデビューして以来、現在まで一度もレギュラー番組が途切れたことがないという、普遍的な人気を誇る風見しんごさん。

そんな風見しんごさんから驚きの発表が…。

 

今年10月10日、“大将”こと萩本欽一さんのYouTubeチャンネル『欽ちゃん80歳の挑戦!』にゲスト出演した際、「私、60を機に来年からしばらく留学させていただこうと思います」と報告。

年内で芸能活動を一区切りとし、来年1月よりロサンゼルスへ語学留学するそうです。

プロフィール部分でも触れましたが、デビューから4曲目となる『涙のテイク・ア・チャンス』でブレイクダンスを取り入れたことで、風見しんごさんは日本における「ブレイクダンスのパイオニア」とされています。

そのイメージが今でも色濃くあるようで、一部ファンからは“ダンス留学”だと思われていました。

 

 

風見しんごさんは40年ほど前にニューヨークでブレイクダンスに出会い、猛特訓を重ね自分のものにしたといいます。

 

風見とブレイクダンスとの出会いは、米国の路上だった。37年前、ニューヨークの路上に段ボールを広げてステージを作り、その上でダンスに興じる子どもたちを見た。背中でクルクル回るパフォーマンスに興味を持った。「今のようにユーチューブとか参考にする映像がなかったので、子どもたちから教わりました」。その後にリリースし、大ヒットした「涙のtake a chance」(1984年)の振り付けの中には、ブレイクダンスを取り入れるなど時代の先端を行った。

ただ、日本国内では当初、周囲の反応はいまいちだった。そんな時に支えとなったのは、萩本欽一の言葉だった。「お前何がやりたいんだ?でも、やってみな」「この踊りが子どもたちにもマネできるようにしなきゃ。子どもたちが応援してもらえるようにしなきゃ」。師が掛けてくれた言葉の数々に感謝を惜しまず、これからも競技普及に向けて力と存在感を発揮する意気込みを見せた。

出典 日刊スポーツ

 

2024年パリオリンピック」でブレイクダンスが正式採用された際には日本ダンススポーツ連盟の会見に招かれ、ブレイクダンスを披露する一幕も。

 

日本国内では当初、周囲の反応はいまいちだったそうですが、風見しんごさんが華麗な宙返りや生歌を組み合わせたことで、若い世代を中心に注目を集めました。

お笑いコンビ『ナインティナイン』の岡村隆史さんや日本が誇るダンサーのTAKAHIROさんも風見しんごさんの影響でダンスをはじめたそうですし、まさに日本におけるブレイクダンスのパイオニアと呼ばれて然るべき存在なんでしょうね。

話を戻しますが、なぜ風見しんごさんは60歳を超えて語学留学しようと考えたのでしょうか?

 

 

 

・なぜ語学留学…?

 

風見しんごさんはなぜ語学留学するのでしょうか?

実は、若い時からそういう希望はあった」と明かしており、順調な芸能生活を一区切りさせてまでアメリカ留学することを決意させたのは家族の存在があったようです。

 

うちの次女が3歳と5歳で明治座を見に行った時、大将の作る舞台が大好きで。勝手に一度、大将の楽屋に行って、うちの娘が“欽ちゃん、(ステージに)出してよ~”ってお願いしたことがあって。大将は“うん、そうだね~”って。本当の子供さんを子供として舞台に上げることはできない、本当の笑いを作るために大人が子供の役をしますから。でも、大将はお優しいから、ダメだよって言わないで“今からの時代、英語が喋れるようになったら出れるよ”って言ってくださって。今、奥さんと次女の日常会話は英語です」と明かした。

その際、6年前から妻と次女が米で生活、風見は都内で1人暮らししていたと明かし、「60を機に留学しようと思っています。」と発言している。

「家族は僕に対して何かがあると英語になるんです。自分だけ何言ってんの?ってなっちゃって。家族にも追いつかないといけないですし。ちょうど還暦で。うちの奥さんと娘は6年前から向こうに行っています」とし、6年間一人暮らしをしていたという。コロナ禍で行き来もできず、まったく会えなかったというが「それでじゃあ今ならということで」と渡米を決断した経緯を語った。

出典 スポニチ

 

6年間も1人で生活されていたんですね…。

詳しくは後ほどお伝えしますが、娘さんは現在19歳

ずっと近くで成長を見守れず、特にこの3年間はコロナ禍で会いに行くこともままならなかったですし、さぞ寂しかったのでしょうね。

それでは、留学期間はどれくらいになるのでしょうか?

 

風見しんごさんは「周りの方からは「60から?」って言われるのですが、1年、2年、僕の頭がどれくらいで働くかはわかりませんが」と話しており、2年間は留学するつもりなんだそう。

風見しんごさんの語学留学について世間ではどのような反応があったのでしょうか?

 

 

みなさん、風見しんごさんにしばらく会えなくなることを寂しく思っているようですね。

風見しんごさんといえば、広島出身のカープファンとしても有名で、少年時代に乱闘となった市民球場に飛び入りし、中日星野仙一さんに砂をかけたという逸話が個人的には好きなんですが、特に故郷・広島の人たちからはテレビで風見しんごさんの活躍を見れなくなることを残念がる声が多く聞かれました。

・・・2年も芸能界から姿を消すとなると、(他のタレントに“椅子をとられる”ことで)そのままフェードアウトする可能性もありますが、それよりも風見しんごさんは家族と一緒に暮らすことを選んだということでしょうね。

 

 

 

・結婚相手の嫁や子供は…?

 

風見しんごさんの奥様は「荒井晶子」さん。

短大で福祉を学んだあと、ミス日本に輝き、芸能界入り。

タレント・モデルとして活動中だった1990年、テレビ番組を通じて風見さんと知り合い、交際へと発展。

1994年にゴールインしました。

 

1996年に長女のえみるさん、2003年には次女のふみねさんが誕生、2008年には長男のこころさんを妊娠しています。

えみるさんは「笑顔が満ちる子になってほしい」という願いが込められた名前で、ふみねさんは大地を踏みしめ、しっかりと根を張ってほしいという願いが込められているそうです。

・・・風見しんごさん以外の家族はアメリカで暮らしているとお伝えしましたが、実は長女と長男はすでに他界されているんです。

 

タレントの風見しんごさんの長女・えみるちゃんが小学校への登校中、自宅から100メートルの場所で交通事故に遭い、帰らぬ人に。享年10。愛する娘の短すぎた生涯だった。

出典 東洋経済オンライン

 

2007年1月17日、えみるさんは登校途中に青信号を渡っていた際、スクールゾーン指定であり進入禁止だったにもかかわらず走行してきたトラックにはねられ、病院に搬送されましたが1時間後に亡くなりました。

トラックの運転手は業務上過失致死の容疑で逮捕され、禁固2年の実刑判決を受けましたが、1人の命が失われたことに対する償いが禁固2年とはあまりにも軽すぎるかもしれません。

喧嘩嫌いだった長女のため」として加害者への思いは会見で一切述べなかったそうですが、「こんな思いは誰にも味わってほしくない」という思いから、交通安全運動や命の大切さについての講演活動を始められました。

 

そして、えみるさんが亡くなってから1年後に奥さんの妊娠が発覚。

男の子でした。

長男は妊娠5カ月のときにダウン症だと判明し、ダウン症の子を育てている夫婦の話を聞くなどして誕生に備えていたものの、妊娠8カ月の時に心臓が止まっていることが確認されました。

去年、えみるいなくなったばっかりですよ?また今年こころですか?何でこんな立て続けで、何でウチばっかりこんな試練が続くんですか?いくつ、あといくつあるんですか?ここまで…何か悪いことしました?って…

・・・当時の風見さんの思いを知るだけでも心が苦しくなってしまいます。

 

幼い我が子を2度も失うという悲しみを乗り越えていった風見さん。

60歳を超えたことで家族との時間をより大切にしたいと考えるようになったのかもしれません。

風見さんが語学留学を決意したことと、次女のふみねさんと奥さんの尚子さんがアメリカで暮らしているという話がここで繋がります。

 

次女のふみねさんは14歳の時にアメリカのハイスクールに進学。

ロサンゼルスにほど近い、オレンジカウンティという街で、尚子さんと2人で暮らしているそうです。

ふみねさんは「将来は舞台女優になりたい」という目標のもと、日々レッスンに励んでいるそうで、ふみねさんが女優を志すきっかけとなったのは、大将こと萩本欽一さんの「今からの時代、英語が喋れるようになったら(舞台に)出れるよ」という言葉でした。

※見逃したという方は「なぜ語学留学…?」の項目をご覧ください。

 

英語が堪能であれば舞台に出られる”という萩本さんの言葉から、英語を勉強し、アメリカで演技やダンスのレッスンを重ねているというふみねさん。

風見さんの語学留学の真意は、アメリカで家族と一緒に暮らし娘さんのサポートをしたいと考えてのことでしょう。

萩本さんが“英語”というワードを出さなければ、ふみねさんは英語を熱心に勉強していなかったかもしれませんし、留学もなかったかもしれません。

 

風見さんも当然英語を留学してまでも勉強したいと考えてはいなかったでしょうし、すべては萩本さんの一言からはじまりました。

人生、何がきっかけで変わっていくのか本当に分かりません。

悲しい思いをしてきた風見さん一家ですし、アメリカでは幸せな時間をたくさん過ごしてほしいですね。

 

 

 

最後までお読みいただきありがとうございます。

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